自分で決断する事の難しさ
人はみんな長い自分の人生の中で
様々な決断をして日ごろ進んでいる
大きな決断から
小さな決断までいろいろ。
私も一丁前に
43年も自分の人生を何だかダラダラと
生きてきている。
勿論、日々 いろんな決断もしている
うるさく鳴っている目覚ましの針をみて
あと5分後に起きようかな?とか
この仕事を終えてから
次の仕事に入った方がいいかな?とか
ガソリンが少ないけど、
まだ大丈夫そうだから
明日の朝、ガソリンスタンドに行こうかな?とか
夕飯の材料は冷蔵庫にあるもので作るかな?とか
兎に角、沢山の決断を常に今、この瞬間だってしている。
けど
小さな決断はわりと簡単に決断しているようなつもりもなく
こなしているにも関わらず
ちょっと大きな決断になると
色々な情報を調べてみたり
人に意見を求めてみたり
でも最終的には自分で結論は出すことになる。
でも本当にそうかな?
私は全てにおいて自分で決断を出してきたかな?
出さねばいけない決断を見ぬ不利してみたり
誰かの意見や情報をもとに
何かその決断にミスがあったときに
自分で決断を下したわけじゃないのだからと
責任逃れを考えた決断を下してたり。
よ~く考えると
重大な決断ほど
本当はそんな責任逃れを考えた決断をしてはいけないはずなのに
責任のがれや あとで自分の傷をなめれるような逃げ道を
考えた決断をしていること
私は結構、多いなと気づく。
どうしてこんなブログを書いたかというと
「人を信じる事」ってのも
結果は相手が私が信じている行動をしようとしまいとそれは結果であって
実は
「信じる行動」は私の中の決断が必要で
それが何より重要なんだと思ったからだった。
本当は相手に「私は貴方を信じている」という言葉を
投げかけるものでも
私が貴方を信じられないのは このような行動が過去にあったからなのだと
相手に私が貴方を信じることができるようになれと
促すものでもなんでも本当はない。
結果 私が望んだ答えだろうが そうでなかろうが
私自身が相手を「信じた」という決定(決断)
それが重要な気がする。
でも
でも
この決断が自分にとって重要であればあるほど難しくて
なかなか決断をだせずに
ついつい
責任逃れの方向に進みそうになる
「信じてるよ」とか
「信じさせてよ」とか
「やっぱり信じていた通りだ」とかね。。
そんな言葉
本当は相手にいう言葉じゃないはずだ
自分で決断して
相手を信じるなり
信じないなり
決めれば言いだけの話。
自分の人生の中の決断なのだから
相手の行動で決めれるものでも本当はない。
どんなに誠実な相手だろうが
どんなに誠実な相手だろうが
どんなに不誠実な相手だろうが
自分が信じると決断したら
それが信じる道を選んだ自分の決断
だから 私が 誰かに
「貴方のことを信じているよ」
っていうときは
きっと私は責任逃れをしていて
その相手のことを少なくとも
信じているという決断をだせずに
信じていないときだともいえるのだと思う。
あ~ へんな話
あ~ へんな話
信じるって変な言葉
100円でジュースかってきてよ~って頼んだ後に
わざわざ
「貴方のこと信じてるからね」とは
絶対いわないし
ちょろまかすような野郎には
ジュースは頼まない。
まぁ。。ちょっと違うかもだけど このたとえw
この文章かいてて
この文章かいてて
自分って馬鹿なのかな~って思うけど
まぁ ブログだからいいか! 笑
あまりに世の中は
どろどろと真っ黒い腹黒い世界なくせに
やたらと美しい言葉で
それにふたをして
みんながそれを絶賛して
涙して、喜んで
けど、ふたを開けてみれば
中は腐ったどろどろで
身動きも取れないほど
息苦しい世界なんだよなってさ。。
なーんかいやーになって書いてみました。
話は脱線しまくってるし
話は脱線しまくってるし
メンヘラっぽいなぁ
病んだか?! わたし 笑
病んだか?! わたし 笑
ごめん、更新されなくなってからもずっと毎日のように見てたんだけどさすがにもうここは更新しないんだなって思いこんでしまって油断してたよー。
返信削除この記事もすでに半年前になっちゃってるけどこれからはまた前みたいに見せてもらうからねー。
これからもよろしくね~
EIKOちゃん ありがとう。
削除ほんと、私ぜーんぜん書けてないね。。。
せっかくコメントかいてくれたのに気がつくのも相当遅くなってしまって><ごめん
もう少し自分の時間が欲しい今日この頃だよ。 ちょい疲れ気味~><
いろいろ忙しそうで大変ね。
返信削除でも人生そんな時もあるしまた時間ができる時もあるからその時その時を大切に生きていくしかないよね。
あんまり無理しないようにしてね~。